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大林組九州林友会の歩み

九州林友会の歩み

九州支店の沿革と九州林友会の結成

 大正三年(一九一四)三月、大林組は鉄道院中央停車場(現・東京駅)を竣立させた。同年十二月、大林組は鉄道院小倉工場の受注を機に、小倉出張所を開設、九州への本格進出が始まった。小倉出張所は、鉄道院小倉工場をはじめ鹿児島停車場などの鉄道院関係工事のほか、福岡県立図書館などを相次いで施工し、大正八年(一九一九)三月には早くも支店に昇格した。
 九州支店の前身であるこの小倉支店は、広島支店はすでに閉鎖されていたから、明治三十九年(一九〇六)四月開設の東京支店に次ぐ二番目の支店である。小倉支店時代の主な施工物件は、東洋製鐵戸畑工場、十五銀行福岡支店、福岡市庁舎、福岡地方専売局工場、九州帝国大学医学部附属病院などである。
 小倉支店は、昭和五年(一九三〇)二月、福岡市に移り、福岡支店と改称する。
 九州における大林組林友会は、大正十年(一九二一)九月に行われた大阪林友会の吉川虎吉初代会長の葬儀の記録写真に「東京・大阪・小倉 大林組林友会」連名による樒の写真があることから、大正十年当時にはすでに小倉林友会が結成されていたことが分かっている。
 支店の移転に伴い翌昭和六年(一九三一)、福岡林友会が再発足する。会員は二八名。会長は大工の溝田愛之助、副会長は石工の奥山茂三郎であった。共に小倉市に在住し、小倉時代から協力会社のリーダー的存在であった。
 福岡支店(昭和六十二年四月、九州支店に改称)は、熊本市公会堂、宮崎県庁舎、三井銀行福岡支店など、官民需に広く対応しながら業容を拡大していったが、風雲急を告げる時代にあって、北九州工業地帯では、国防産業に直結する重化学工業関係の工場建設が急がれ、それらの多くを担当した。
 この時期に、大林組とその傘下の林友会会員が施工した特殊な建造物に、「八紘一宇之塔」がある。太平洋戦争開戦の前年、昭和十五年(一九四〇)は皇紀二六〇〇年にあたり、この記念事業として建立された。わが国の建国神話に基づく”世界家族”の理想をシンボライズしたもので、国内はもとより世界中から集めた切石でつくられた、日本一高い石塔(三八・八メートル)で、石には一個一個に寄贈団体の名前が刻み込まれている。設計は彫刻家の日名子実三、構造は鉄筋コンクリート造、切石張り。「八紘一宇」の揮毫は秩父宮殿下。これは、宮崎県知事相川勝六の創意で計画され、日向灘や阿波岐原、霧島の秀峰を仰ぐ宮崎市下北方町の高台に立っている。当時、拾銭紙幣の意匠にもこの塔が用いられた。戦後は「平和の塔」と改称された。
 戦時中は各地の都市が空襲されたうえ、長崎には原爆が投下され、焦土のなかで終戦を迎えた。戦後は、進駐軍関係工事から始まり、朝鮮戦争特需景気で日本経済は復活し、昭和三十年代の高度成長期に入ると、建設需要は急増、福岡支店の受注高は大林組の一割を超える活況を呈した。ただ一方で、進行するエネルギー革命のなかで産炭地域は徐々に衰退していった。
 終戦から昭和三十年代の終わりまでの主な施工物件は次のとおりである。佐賀県庁舎、福岡高等地方検察庁合同庁舎、福岡逓信病院、三菱製鋼長崎製鋼所平炉工場など、三菱電機長崎製作所大型品工場など各種工場、不知火干拓和鹿島工区堤防、平和台球場改修、八幡製鐵(現・新日本製鐵)戸畑転炉工場、熊本城天守閣、熊本合同庁舎、九州電力新小倉発電所本館他、福岡市民会館などである。

昭和四十年代以降の実績

 昭和四十年代にはいると、空前のいざなぎ景気が訪れて日本は経済大国となり、新幹線、高速道路、地下鉄などの社会資本の整備が順次進められた。福岡支店と林友会会員各社も各地でこれらの関係工事を施工した。また、九州初の原子力発電所、九州電力玄海原子力発電所建設にも携わった。昭和四十八年(一九七三)秋に発生した石油危機を契機に、日本経済は低成長の時代に入り、産業構造の転換と技術革新を迫られた。とりわけ重厚長大型の北九州工業地帯は大きなダメージを受け、同地域に多くの得意先を抱える福岡支店も少なからぬ影響を受けた。
 昭和四十年代の主な施工物件は次のとおりである。阿蘇観光ホテル、毎日西部会館、博多郵便局、天草連絡道大矢野橋、福岡地方合同庁舎、福岡武田ビル、長崎聖フランシスコ病院、九州日本電気熊本工場、住友金属工業小倉製鉄所第二転炉、長崎カトリックセンター・修道院、福岡相互銀行本店、新日本製鐵大分製鉄所連続熱延工場酸洗ライン、南日本新聞会館、熊本交通センタービル、名村造船所伊万里工場建設ドック(JV)、日立造船有明工場一号・二号ドック(JV)、九州電力玄海原子力発電所一号機本館など。
 福岡支店は、昭和三十年(一九五五)から四十年までの間、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島に各出張所を開設、営業網の強化を図った。さらに、昭和五十一年、沖縄営業所の所管が東京本社から福岡支店に移された。
 昭和五十年代から昭和末までは、低成長から長期不況、そして外需依存の景気回復、円高不況と続き、総じて建設需要は低迷を続けたが、昭和六十二年(一九八七)頃からようやく回復に向かった。
 林友会の呼称であるが、福岡支店が九州支店と改称された昭和六十二年(一九八七)四月をもって、福岡林友会は九州林友会と改称された。本稿では以後、呼称は九州林友会に統一する。
 この時期の主な施工物件を挙げると、次のとおりである。竹田市文化会館、天神地下街(JV)、九州電力新小倉発電所三号機・四号機・五号機各本館(JV)、伊岐佐ダム(JV)、九州電力玄海原子力発電所二号機本館、カトリック長崎大司教区浦上天主堂改装、宮崎県長谷治水ダム(JV)、松島火力発電所一・二号機本館(JV)、福岡市高速鉄道一号線天神停車場および天神工区(JV)、同二号線東公園工区(JV)、福岡県庁舎行政棟(JV)、熊本市役所新庁舎(JV)、熊本日日新聞社新聞製作センター、福岡法務合同庁舎(JV)、阿蘇火山博物館(JV)、大分キヤノン工場棟、沖縄石油基地(沖縄CTS)第二期工事(第一工区)、沖縄銀行本店(JV)、九州横断自動車道諫早工区・武雄IC・小倉南IC・別府工区(各JV)など。
 平成に入ると、元年(一九八九)のアジア太平洋博、翌二年の福岡国体の開催と続き、北部九州は折からの平成景気と重なり、大きく躍進するが、その後のバブル崩壊による長期低迷は再び冬の時代の到来を思わせる。
 とはいえ、プロジェクトの大型化・高度化と、工法、施工技術の進歩、先鋭化が相まって、かつてない建設物を続々と施工してきた。平成時代の主な施工物件は次のとおりである。
 西鉄博多駅前ビル、電源開発松浦火力発電所一・二号機本館(JV)、鳴見ダム(JV)、長崎市クリーンセンター(JV)、大分県県民の海マリーンカルチャーセンター(JV)、ハイアット・レジデンシャルスウィート・福岡(JV)、アラコ九州工場(JV)、シーガイアの「オーシャンドーム」(JV)、漢那ダム(JV)、第一宮銀ビル(JV)、北九州穴生ドーム(JV)、九州縦貫自動車道加久藤トンネル(JV)、大分県立図書館(JV)、久留米市庁舎(JV)、マリンメッセ福岡(JV)、日本ガス鹿児島工場PC-LNG地上式貯槽、鳥栖スタジアム、(JV)、玄海原子力発電所三・四号機本館(JV)、鹿児島県庁舎行政庁舎(JV)、阿蘇ハイランドゴルフコース、NTTドコモ九州ビル(JV)、博多座・西銀再開発ビル(JV)、六間堰、東九州自動車道国分IC(JV)、大分キヤノンマテリアル97A、玄海エネルギーパーク(JV)、アミュプラザ長崎・JR九州ホテル長崎(JV)、南日本新聞会館、藤ノ平ダム(JV)、海峡ドラマシップ(JV)、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(JV)、別府市総合体育館(べっぷアリーナ)(JV)、福岡市高速鉄道三号線天神工区(JV)、新天神地下街建設工事(JV)、海の中道の海水淡水化施設設備事業(JV)ほか。

九州林友会会長、副会長

 九州林友会の歴代会長は次のとおりである。

   初代 溝田愛之助 昭和六年~
   二代 奥山茂三郎 昭和十二年~
   三代 相羽豊吉  昭和十八年~
   四代 鶴野 忠  昭和二十八年~
   五代 野端久生  昭和五十年~
   六代 中川俊雄  昭和六十年~
   七代 加来俊之  平成三年~
   八代 塩月勇司  平成七年~

 副会長(会長歴任者は除く)歴任者は、小川明、太田嘉次郎、守谷末人、佐々木康悦、藤中栄作、石井竹市、児玉義秀、野端晃、の各氏である。
 溝田愛之助は、当時の名義人の中核を占めた木屋市一門とは異なり、明治末頃から小倉で大工を営み、大林組の小倉進出に際しては大きな力となった。一方、藤中組の初代藤中栄作(明治三十二年山口県生まれ)は、小学初等科卒業と同時に溝田愛之助に弟子入りする。昭和十年(一九三五)、溝田は大工の下請名義を世話役の藤中に譲り、引退する。藤中組は昭和二十五年に法人化し、五十年に藤中恵一が二代目社長に就任、現在に至る。
 奥山茂三郎は、小倉市の石工であるが、戦時中に退会した。
 相羽豊吉は、福岡市の防水スレート専門業者で、戦中戦後の厳しい時代に会長を務めたが、昭和二十七年(一九五二)に退会した。
 鶴野忠は、明治二十年福岡県生まれで、明治三十三年(一九〇〇)から塗装業に従事し、大正七年(一九一八)に名義人となる。昭和二十年代の終わりから五十年の初めまで、最長の会長任期を記録したが、五十年代の初めに退会した。
 野端久生は、鳶・土工の野端組二代目。父である初代野端安次郎は、吉川虎吉の副長清水多四郎の若衆頭を経て、大正十二年(一九二三)に名義人となる。現副会長の野端晃は三代目。野端組は、古い伝統に安住することなく、技術革新を重ね、昭和五十年代後半には早々にパソコンを導入して事務の効率化を図り、平成七年(一九九五)には、CAD技術を導入するため、担当技術者を大林組九州支店工務課で一年間研修させた。
 中川俊雄は、大阪の錺工・藤本巳之助の経営する藤本工作所の鉄筋工事現場職員などを経て独立、昭和二十七年(一九五二)に鉄筋の名義を得、中川工作所を興す。法人化は四十五年で、現社長中川俊寛は二代目。
 加来俊之は、高橋組(高橋源次・福岡市)世話役を経て、昭和三十二年(一九五七)に独立、三十九年大工の名義人となり、法人の加来工務店を興す。現幹事の加来俊一は二代目。
 塩月勇司は、昭和三十七年(一九六二)から、当時、福岡林友会の幹事であった野村政治(野村組、土工、大分県南海部郡上浦町)の名義で九州各地の工事を請負い、四十八年、塩月工業を設立して福岡林友会会員となる。
 小川明は、もと福岡市の土工手伝であった。
 太田嘉次郎は、発足時の昭和六年(一九三一)からの会員で、福岡市の木材商であった。
 守谷末人も、発足時からの会員で、福岡市の煉瓦工業者であった。守屋組は、守谷末人-守谷茂美-守谷茂人と三代にわたって引き継がれ、現在は総合建設業を看板にしている。
 佐々木康悦は、大林組創業当初の土工の専属下請名義人・石川新兵衛の系譜に属する藤縄政造の世話役であったが、昭和十五年(一九四〇)、その名義を相続し福岡林友会会員となる。
 石井竹市は石井商会の初代である。昭和三十六年(一九六一)に入会した。小倉を拠点とする金物商であったが、しだいに鉄骨に重点をおき、現在は鋼構造物工事業となった。
 児玉義秀(土木、大分県佐伯市)は、児玉組二代目。親である初代児玉秀雄は、樹村圓治(上村駒吉の名義を相続)の代人を経て、昭和十五年(一九四〇)に名義人となった。児玉組は、児玉秀雄-児玉義秀-児玉卓郎-児玉潤と引き継がれてきた。

九州林友会の会員の推移

 九州林友会の会員は、昭和六年(一九三一)の再発足時は二八名(社)であったが、時代とともに漸増し、九〇名(社)を超えたこともある。ただ、他地区同様、異動が激しい。昭和四十年(一九六五)から平成十七年(二〇〇五)四月現在まで会員を継続したものは次のとおりである(五十音順)。
 アオケン(防水内装、福岡市、旧・青盛建材)、アスワン(内装仕上、福岡市、旧・内装、大装アソーティング、大装)、安藤造園土木(造園・土木・鳶、福岡市)、石井商会(鋼構造物、北九州市)、大川商店(土木・建築資材、長崎市)、加来工務店(型枠、福岡市)、工材社(防水、北九州市)、児玉組(土木、大分県佐伯市)、三機工業九州支店(空調・衛生・電気、福岡市)、三晃空調九州支店(管、福岡市)、志熊商店(金属、福岡市)、須賀工業九州支店(管・消防施設、福岡市)、大栄設備(管、長崎市)、ダイダン九州支社(設備、福岡市)、デガワ(タイル・れんが・ブロック、北九州市)、徳田鉄工所(鋼構造物、福岡県志免町)、中川工作所(鉄筋、福岡県志免町)、野端組(鳶・土工、福岡県前原市)、橋本工業(左官、福岡市)、藤中組(建築・大工、福岡市)、フチカ(タイル・ユニットバス、福岡市)、帆足組(鳶・土工、福岡市)、松村硝子店(ガラス、大分市)、守谷組(総合建設、福岡市)、友栄建設(土木・建築・鳶、熊本市、旧・荒木組)、吉田善平商店(建材卸、福岡市)、渡辺藤吉本店(硝子、福岡市)以上二七社。
 総会は年に二度、春秋に行われる。九州は面積が広く、会員同士の交流を図りにくいことから、春は福岡を離れ、開催県を各県で持ち回りで担当している。また、県別の協力会社の会を結成し地域ごとの情報交換を深める努力もある。
 昭和五十一年(一九七六)から始まった災防協活動は、九州支部でも活発に展開されている。歴代九州支部長は、野端久生、中川俊雄、加来俊之、塩月勇司と引き継がれてきたが、任期はいずれも、各氏の九州(福岡)林友会会長の任期とほぼ重なる。
 これまで九州林友会は四回、春季連合協議会を主催してきた。開催年と開催場所は次のとおりである。

   昭和三十八年 熊本県 おく村温泉旅館
   昭和五十年  佐賀県 嬉野温泉 和多屋別館
   平成元年   別府市 ホテルニュー昭和園
   平成十三年  福岡市 ホテルオークラ福岡

運営理念を策定

 九州林友会会長歴任者のうち、次の三氏が林友会連合会副会長を兼任した。

   鶴野 忠  昭和二十八年~四十八年
   野端久生  昭和五十三年~六十年
   塩月勇司  平成十一年~

 塩月勇司は、第八代九州林友会会長に就任して間もなく、「大林組九州林友会運営理念」を策定した。その基本理念は「大林組と林友会が真に信頼し合う、新しい関係を構築する」というもので、その内容は次の三本柱で構成される。

 一、大林組の受注競争に協力できる体制の確立とあらゆる角度からの営業協力
 二、大林組が他ゼネコンとの価格競争に勝ち得る施工体制の確立
 三、会員間の競争の原理を活発化し、会員の企業体質改善を図る

 これは、元請の温情を期待する受け身の下請体質や義理・人情などの人間関係に依拠する古い関係をあえて否定し、不断の自己変革による体質改善と営業協力で、対等のパートナーシップを築き、大林組グループ全体の競争力を強化して勝ち抜き、運命共同体として共存共栄を図ろうとするものである。これからのあるべき方向を指し示すものとして、九州のみならず全国の林友会会員に大きな示唆を与えたものである。
 また、塩月勇司会長は平成十一年(一九九九)、林友会連合会副会長に就任すると、大林組と林友会との新たな関係を構築するために、林友会の最高意思決定機関として「全国会長会議」の常設を提案し、実現した。

九州林友会会員各社の活躍

熊本城天守閣再建

 慶長六年(一六〇一)加藤清正によって築かれた熊本城は、明治一〇年(一八七七)西南戦争により天守閣などを焼失していた。日本三名城の一つとされながら長く天守閣不在であったが、昭和二十五年(一九五〇)、宇土櫓ほか一二棟が国の重要文化財に指定されたことで再建の機運が高まり、清正公三百五十年祭と市制七十周年を記念し熊本市が再建を決定、まず昭和三十四年大小天守閣に着工、大林組の施工により翌三十五年に一年半をかけて完成した。鉄筋コンクリート造。現在に至るまで継続的に工事が続き徐々に創建当時の姿を取り戻しつつある。
 工事に従事した協力会社は藤中組、仲原建設、カワゴエ、錦戸組、友栄建設、杉本塗装ほか。藤中組の藤中恵一は現代の名工に認定される職人でもある。

世界有数の日立造船有明工場一号・二号ドック

 日立造船有明工場は世界有数の規模を誇り、超大型船を連続建造できる二ドック建造システムで、六〇万トン級の大型タンカーを年間四隻建造する能力をもつ。一〇〇万トン級超大型タンカーも建造可能である。ここでは、一号ドックで船尾部を、二号ドックで船首部を建造し、これを一号ドック内で結合して、ドック内で艤装を完了し、ただちに試運転ができるという画期的な建造方法がとられている。
 一号ドックは長さ六二〇メートル、幅八五メートル、深さ一四メートル、二号ドックは長さは一号ドックの約半分の三八〇メートルだが、幅、深さは一号と同じ巨大さで、両ドック合わせると容量は一二〇万立方メートルに及び、掘削土量は一五〇万立方メートル、コンクリート量二〇万立方メートル、鋼矢板約一万二〇〇〇トン、基礎杭約五〇〇本という前代未聞のスケールであった。
 ドック本体、クレーン基礎、ポンプ室などの設計・施工は大林組JVで、特命受注。工期は昭和四十七年(一九七二)一月~四十九年十月。所長は石元顕一氏。協力会社は、中川鉄筋、三信建設ほか。
 なお、同時期に組立工場などの建築工事も行った。所長は南薗次男氏、協力会社は、石井商会、仲原建設ほか。

西日本最大にして日本一豪華な天神地下街

 昭和四十八年(一九七三)五月に九州初の地下街として着工、間もなく石油危機に見舞われ資材調達に苦労しながら五十一年八月に竣工した天神地下街は、福岡一の繁華街・天神一~三丁目に天神公共地下駐車場(地下二階、四五〇台収容)、公共地下道および付属店舗(地下一階、一〇八店舗)など南北約三六〇メートル、幅四三メートル、深さ二一メートルに及ぶ当時西日本最大の地下街であった。床には舗石タイル、煉瓦タイルが敷きつめられ、壁と柱は黒御影石、天井は唐草模様の透かし彫りをあしらったアルキャスト仕上げで、街並みは一九世紀ヨーロッパの雰囲気に演出され、地下街建築としては贅をつくしたものといえる。その豪華さは人々の目を奪う。土木、建築共に、大林組JV。
 繁華街であるだけに、歩行者、車両が多く、路面電車も走り、地下には埋設物が輻輳していた。土留工法にはOWS工法による地下街側壁兼用の地中連続壁工法が用いられた。施工法は逆巻き工法が採用されるなど、当時としては先端的な技術が動員された。
 土木工事の所長は白神稔氏、協力会社は小野工業、壺山建設、中川工作所ほか。建築工事の所長は秋山修蔵氏、協力会社は帆足組、工材社、渕上勝蔵商店、新栄製作所、橋本工業、梶原塗装ほか。

わが国初の国産化原発、九州電力玄海原子力発電所

 玄界灘に面した佐賀県東松浦半島の先端に位置する九州電力玄海発電所には現在、一号機から四号機までの四機の原子力発電が稼働している。一号機本館建設工事は、昭和四十六年(一九七一)三月にスタートし、基礎掘削の後、原子炉建屋、原子炉補助建屋、タービン建屋などの建設を行い、四十九年十一月に竣工、翌五十年十月に営業運転を開始した。
 これは、九州初の原子力発電所であるとともに、わが国で初めて設計から施工まで建設技術の全般にわたる国産化を目指した原子力発電所であった。一号機ではプラント施設の九〇%近くの国産化に成功し、軽水炉型原発の日本定着に大きな役割を果たした。
 二号機本館の規模は一号機とほぼ同様で、昭和五十一年(一九七六)六月に着手、五十四年十二月に竣工するが、プラント施設のほぼ九九%近い国産化が進み、わが国の自主技術にもとづく第二世代の原子力発電所建設の幕開けとなった。発電能力は一号機、二号機共に五五万九〇〇〇キロワット。大林組の単独工事で所長は一号機が山崎担氏、二号機が森本正一氏。
 その後、三号機本館(昭和六十二年五月~平成五年三月。森本正一所長)、四号機本館(平成四年一月~八年八月。森本正一・石井道真所長)もJVで施工した。
 これらの工事に従事した林友会会員は、野端組、塩月工業、中川工作所、石井商会、新栄製作所、壺山組、松浦通運、昭和地下工業、加来工務店、アスワン、工材社、諸泉、渡辺藤吉本店である。

世界最大の室内ウォーターパーク“オーシャンドーム”

 宮崎の誇る国際海浜コンベンションリゾート「シーガイア」。その中核施設であるオーシャンドームは、長さ三〇〇メートル、幅一〇〇メートル、高さ三八メートルの開閉式の屋根をもつ、世界最大の室内ウォーターパークである。初代所長は片平繁氏で二代所長は大山弘氏であった。
 「ドーム内には、造波装置によりさまざまな波をつくりだせる海を中心に、シミュレーションシアターなど数多くの遊戯施設が備えられている。また、夜になると、巨大なウォータースクリーンやドーム空間に、光と音楽のイベントが展開される」(二代所長大山弘氏の談話)
 設計・施工は三菱重工業。当社は土木・建築工事を担当。構造・規模は、RC造一部S造、三階、延床面積五万五三八〇平方メートル。工期は平成三年(一九九一)二月~同五年三月。
 従事した林友会会員は塩月工業、九長、新栄製作所、山口建材店、川崎工務店、橋本工業、アスワンほか。

九州一の規模を誇る大分県立図書館

 平成四年(一九九二)九月に着工し、六年十一月に竣工した大分県立美術館は、蔵書能力一六〇万冊の、九州一の規模である。設計は、大分市が生んだ著名な建築家、磯崎新氏。高い天井のメインエントランスホールから入ると、「百柱の間」と呼ばれる一〇〇本の打放しの柱が立ち並ぶ閲覧室が主階にあり、ほかに「公文書館」「先哲資料館」も常設されている。外装は、割肌煉瓦タイルと石張りとが調和し、格調高い。
 SRC造一部RC造、地下一階、地上六階、PH付、延床面積二万二八一〇平方メートル。大林組JV。所長は江藤忠見氏。従事した林友会会員は、佐々木工業、神崎建設、藤工務店、ベッテン、松村硝子店。

鹿児島の新しいランドマーク、鹿児島県庁舎

 三年余の工期で平成八年(一九九六)九月に竣工した鹿児島県庁舎は、錦江湾に浮かぶ桜島を眺望できる町の最先端に位置し、その堂々たる風格は、まさに鹿児島の新しいランドマークである。とりわけ、建物中央の自然光を取り入れる巨大なアトリウムの魅力は圧倒的である。
 S造およびSRC造、地下一階、地上二〇階、延床面積七万八六二一平方メートル。大林組JV。所長は大山弘氏。従事した林友会会員は米盛機動、エビハラ、栄進工業、佐々木工務店、堀之内工務店、飯田工業、九長、市坪建装、小園硝子商会。

平和への祈り新たに――国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

 長崎は広島と並んで、世界で唯一原爆の惨禍に見舞われた都市である。この決して忘れてはならない被爆体験を後世に伝えるために、この祈念館がつくられた。この施設は、「平和祈念・死没者追悼」「被爆関連資料・情報の収集」「国際協力・交流」の役割を担う。追悼空間や国際交流ホールなど主要部分はすべて地下二階に配置し、地上部は公園と駐車場になっている。RC造、地下二階、地上一階、延床面積三一三一平方メートル。工期は平成十二年(二〇〇〇)十月~十四年十二月。大林組JV。
 所長は石井道真氏。従事した林友会会員は野端組、野副建設、小田工業、池田工業、九長、新栄製作所、木下建材産業、平松装備、大栄設備、志熊商店ほか。

九州林友会会員たち

 カワゴエは、昭和五十年(一九七五)に入会し、熊本城跡南大手門および塀復元工事、熊本大学エイズ学研究センター・動物資源開発研究センター新設工事、聖ヶ塔病院整備事業などに従事してきたが、前社長の川越忠信は次のように語る。「昔は、現場ではみんなの団結力が強く、和気あいあいとしていた。みんな所長のためなら、時間、労力を惜しまず働いた。所長も我々を可愛がってくれ、よく飲みに連れて行ってもらったものだ。いまは、こういう関係は希薄になってしまったかもしれない」。
 橋本工業は、古い歴史を誇り、明治七年(一八七四)大阪生まれの初代橋本禧太郎は大阪で修業した後、明治三十六年福岡市で左官業を創業、三和銀行久留米支店など九州各地で活躍、鏝絵の名手としても有名であった。九州林友会の現監査橋本喜久雄は三代目。技術革新にも敏感で、昭和四十二年(一九六七)に九州地区で初めてモルタルポンプを導入した。また、平成の初め、塗り壁などの塗装技術を生かす専門会社を別につくり、全国展開を図っている。
 フチカは、大正八年(一九一九)、初代淵上勝蔵が煉瓦および高炉セメントを販売する淵上勝蔵商店を創業したことから始まる。先祖は、元禄時代から博多で手広くびんつけ油の問屋を営み、屋号を深江屋(通称・油屋)といった。昭和に入り、伊奈製陶のタイルを扱うようになってから盛業に向かう。九州林友会発足時からの会員で、現在会計を担当する渕上格は三代目当主である。

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